2016年2月8日月曜日

池田生まれの吉田堅治画伯

全く知らなかった池田生まれの「吉田(よしだ) (けん)()」画伯

去る3月4日呉服小学校体育館で「吉田堅治画伯展」が開催された。郷土史家を自称している私としては、全く知らなかったことに恥ずかしい思いをしました。私だけではなく
たぶん池田市でも日本でも殆どの方がご存知ないのではないでしょうか?
平成22年8月9日NHKテレビ「生命」として放映された吉田堅治画伯は池田の下渋谷に生まれ太平洋戦争では特別攻撃隊となり出撃直前に敗戦となったため、危うくも尊い命を拾い帰還されました。昭和39年(1964)パリへ渡り苦しい生活に耐え、多くの人々の死と直面しながらも「死」を真摯(しんし)に見つめ深く追求して、死の悲しみを越え浄化し、「生」へと輪廻(りんね)させると言うその思想をモチーフとし「生命」(LaVie)としてカンバスに描き生涯を貫かれました。そして「平和と生命」の大切さを芸術によって表現されました。その作品の多くは抽象画で初期は平和と戦争を黒と白の油絵で描かれていましたが、彼の理解者メキシコ人のホセ氏との親交でメキシコの強烈な色彩に触れ蒼・朱・赤・金・銀などの色を使う画風を深めて行かれました。また彼はパリに43年の長期滞在していながらも日本人としての誇り・自覚を持ち続け異民族文化と融合しながらも日本画の心を秘めた抽象大作を描きました。作品の前に立つと抽象画であるだけに見る者を推考させて釘付けにする精神的迫力を感じます。そして私はその画風に尾形光琳「燕子花図屏風」(えんしかずびょうぶ)や「紅白梅図屏風」の絵を重ねてイメージしました。バイブルと般若心経を併せて信仰した彼の超宗教的作品はフランス・イギリスはじめヨーロッパ各都市で開かれた個展で人々に深い感銘を与えました。そして遂に1993年「大英博物館」主催の「第1回日本人作品展」が開催されるまで作品は認められるに至りました。
「命は神の分身である」と唱え、命の大切さ・与えられた命に報いる行動の大切さを作品を見る人々に考えさせました。
 吉田堅治画伯を尊敬すると同時に近親感を抱くのは彼が池田出身で昭和21年(1946
から5年間呉服小学校美術教員として指導に当たられ、実兄吉田 勇氏は池田小学校校長
として吉田堅治を理解援助し続けられたことです。
 吉田堅治画伯は2009224日パリで逝去されモンパルナス墓地に寛子夫人と共に永眠されています。享年85歳でした。
 偉大な業績を残された吉田堅治画伯を池田市民の誇りとし、永久に記憶に留めて頂きたいと願うばかりです。
なお、甥にあたる「吉田 元寿」氏からご提供頂いたDVD「吉田堅治:ARTIST OF THE SOUL」(72分)がありますのでご連絡頂ければ貸出しいたします。

呉服小学校での「吉田堅治画伯展」で掲示された吉田堅治氏の略歴・紹介を転載します。

         池田市出身の世界的画家吉田堅治を偲ぶ

世界で高く評価された池田・下渋谷生まれのすごい画家がいた。その名は吉田堅治である。吉田は池田師範在学中恩師古城戸優先生の「吉田よ、銃を取らずに絵筆を持て」の教えに深く感激しつつも、卒業を目前に太平洋戦争が激化するなか、海軍を志願して土浦航空隊で特別攻撃隊員として、「命をかけて国を守る」過酷な訓練を受け、死を覚悟する日々をった。しかし、出撃直前、敗戦となり尊い命を拾う。昭和21年子どもを中心にした民主教育をめざし、呉服小学校教員となり、さらに先輩荒木正三郎先生等の指導の下に日教組結成にも参加してゆいく、そして東京の学校に移って、恩師の「銃を取らずに絵筆を持て」の言葉を心に刻んで、油絵の制作に励む。モチーフは戦争と死、色彩は黒。平和と生命を黒と白で抽象する作品であった。だが、日本画壇での評価は低く失望した吉田は、芸術の都パリに単身旅立った。昭和391964年)東京オリンピックの年である。この決断を深く理解し援助し続けたのが、実兄吉田 勇(元池田小学校校長)であった。さらに、池田の教職員の先輩・後輩たちが、池田市中央公民館に吉田の作品展を開いて彼の門出を祝い、渡航費捻出に協力したことも幸いした。パリでは当初苦しい生活に耐えながら精進し、やがて、モンパルナスにあるフランス政府のアトリエを唯一のアジア人として借りられるまでに、彼の画業が認められるようになった。その頃の彼の作品は、黒と白から、その中に金彩・銀彩が微妙に融合したものになり、20ぶりに帰国して東京・京都・大阪で開催した個展においてそれらを観ることが出来た。吉田は金銀を光としてでなく色として描くようになっていった。また、吉田の芸術を高く評価するとともに、吉田の人柄と彼の人生観・世界観に共鳴する人物ホセ氏があらわれて、親交が深まり彼の強い協力を得て、共にイスラエルやメキシコ・エジブトへ旅行して、彼らの独特で強烈な民族的な色彩感覚を学び、日本民族固有の「色彩感」をもった作品群を生むこととなった。彼の作品は一貫して「生命inochi」を追究し続けたのである。これまでの黒・白を主調にしたもの、金彩・銀彩を一部に融合させたものから、光琳や等伯を思わせる金箔・銀箔を大胆に使いながらも金箔・銀箔を背景としてでなく強く前面に、いや全面に打ち出すように構成されたものを生み出していった。それは単なる金銀の輝きではなく、彼独自の深い蒼色と朱色・赤色とによく調和した金の渋色、銀の鈍色の光の色をその奥に漂わせる、見事な油彩による日本画的抽象の大作となって表現されていった。こうした作品を生む契機となったものは、下渋谷の旧家の日本画の名品であり、上原寛子との結婚と死別という極めて人間的な喜びと悲しみがあったことも否めない。吉田の作品に対する反響は、フランス・イギリスはじめヨーロッパ各都市で吉田を紹介する個展が開かれ、1993年(平成5年)大英博物館主催「第1回日本人作品展」に同館日本部長ローレンス・スミス氏によって吉田が選ばれ、大盛況であったことでもうかがわれる。著名な美術評論家たちは「新しい日本画である」と賛嘆した。2007年ロンドンのオクトーバー・ギャラリーでの個展では「見る者を敬虔な沈黙、あるいは涙を誘う」とガーディアン紙記者が批評。また、最後の個展となったパリのユネスコ本部の会場では、吉田の東西文化の和解と死者への鎮魂の祈りに多くの人が感動したという。吉田は後年深く仏に祈り、次々と画風を深めて「祈りと生命」を展開し続け、数多くの作品を創出していった。恩師松林寛之先生から授けられた法名「釈蒼空」を思わせる鮮やかでそして深い蒼。メキシコ風の原色を思わせながらも濁りのない深い赤。それらは吉田の「いのちを守る平和への願望」であり、その対極の黒は戦争や死に対する深い憤りと、言葉では表現しようもない吉田の心の深奥にある鬱屈、魂の祈りであったに相違ない。高名な美術評論家チャールズダーウエント氏は英インディペンデント紙に長文の追悼記事を捧げ、その末尾に「吉田堅治:1924524日、日本の大阪、池田で生まれる。2009224日、パリに死す。」と記している。こうした吉田堅治の戦中戦後の画業に接することは、今日のわれわれにとって大きな生き方を示唆するものと信じ、また、池田に生まれた世界的な画家の作品を鑑賞することによって、郷土池田に対する愛着の心を培うよい機会となることと信じ、「吉田堅治とその作品」を鑑賞する会を展開していきたいと願うものであります。



       

  吉 田 堅 治 の 略 歴

 1924(大13)大阪府池田市下渋谷に誕生
 1940(昭15)秦野小・附属高等科を経て大阪第二(池田)
         師範学校入学。美術部バスケット部で活躍
 1944(昭19)池田師範繰上げ卒業後海軍特攻隊で訓練を
受ける
 1946(昭21)池田市立呉服小学校教員
 1951(昭26)上京して美術教員
 1964(昭39)パリへ渡航
 1983(昭58)3ヶ月間日本帰国東京・京都・大阪で個展
 1989(平 元)オクトーバーギャラリーで英初の個展
 1990(平 2)イスラエル・エジプト・メキシコ・キューバ
の旅
 1991(平 3)メキシコ州グレングリーンで北米初の個展
 1993(平 5)大英博物館で存命画家初の個展
 1997(平 9)メキシコシティーの国立近代美術館で展示会
 2003(平15)英カンタベリー寺院で「生命」シリーズ
展示会
 2006(平18)仏ブロア城で個展
 2007(平19)オクトーバーギャラリーで「命と平和」
作品展
 2008(平20)パリ・ユネスコ本部で個展
 2009(平21)母国で死去。パリ・モンパルナス墓地に
妻寛子さんと共に永眠

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