2016年2月9日火曜日

釣鐘山

釣鐘山(標高182m)

宝塚市長尾山連山の東端に釣鐘山があります。池田五月山の「大一文字」の愛宕火が点る「秀望台」と向かい合わせになっています。この山は昔為奈山(いなやま)山本山・栄根山(さかねやま)・平井山などと呼ばれていました。山麓の小戸村に(おおべむら⇒小戸神社のある辺り)仏像を背負った老人が訪れて「この村を飢饉から必ず救いましょう」と言うので村人は大切に老人をもてなしていたところ間もなく病に倒れ息の絶える前に「わしが死んだらこの山の頂上に埋め、7月(旧暦)中頃墓に参り火を焚いてくれ」と遺言し亡くなりました。埋葬した棺の中から12日間鐘の音が聞こえたと言われます。そして

享保17年(1732)からお盆の14152日間火を焚いて村が飢饉に見舞われぬように小戸村が役に当たって毎年続けられました。やがて山に「懺悔坂」(ざんげざか)「感謝坂」「精進坂」と3本の山道が造られてこの道沿いに240個の火点を置いて火を焚くと丁度釣鐘の形となって、以後「釣鐘山」と呼ばれるようになりました。大正時代には5年に一度、昭和初期からは815日一回だけ点されていましたが、今は行われなくなってしまいました。戦前阪急電鉄が釣鐘の形に常夜燈を設置し車窓から釣鐘の火が見られた頃もありました。この山の辺りには多くの古墳があり古代から葬送の地となっていました。またこの山の奥には「石切山」があってここの石で古墳が造られ、江戸時代には火打石が発見され地元(川西市火打)の産業となっていました。池田も含めて一帯は古代には為奈県(いなのあがた)と呼ばれ猪名川中心に東西3里と決められて、古代は加茂族が勢力を持っていました。中世からは川辺郡と呼ばれるようになって、現在は兵庫県となっています。昔とは地域の境界の感覚がすっかり変わってしまいました。

池田の火祭り「大一文字」がなぜ市内から見えないの?

なぜ「大一文字」は市内から見えないの?

「愛宕火は 斜めにとぼる 池田かな」   稲束 香山(いなずか こうざん)

毎年8月24日「大一文字」の火文字は池田市内から見ようとしても斜めになって良く見えない。何故なんだろうと不思議に思われる方も多いと思います。確かな記述はないのですが私なりに推測してみますと、ひとつは愛宕神社の参詣道に当たることです。昔からの「愛宕道」は油掛地蔵前から(がんがら火小松明の降りて来るところ)登山道となっています。今も宝永元年(1704)「左 あたごみち・是より九町」(985m)の道標が残っています。ここから階段を登って公園をぬけて秀望台に至る道が昔からの参詣道となります。途中に気をつけていると町石があって愛宕神社までの距離があと何町あるか解ります。現在はすべて残っていないのですが「秀望台」は町石4町の場所位に当たります丁度五合目(145m)です。ここに愛宕神社一の鳥居が建てられています。元禄31690
甲賀谷町(城山町)が寄進した鳥居です。この鳥居の真上に「一の火文字」が文政年間の
始め(1804頃)に点されました。(現在はドライブウェイが出来たので下になりました)

火文字を焚くのに最も適した場所で、はからずも西向きなってしまったのではないかと思います。その他向い側の「釣鐘山」の点灯と競いあった。とか西方浄土へ向けてとか、昔の為奈県・川辺郡を意識したとか「唐船が淵」から見えるようになど考えられますが、現在最も美しくみえるのは「呉服橋」からの展望です。「大一文字」になったのは明治から大正初期の頃からです。

将軍地蔵

将軍地蔵菩薩
「がんがら火祭り」は火の神「加倶鎚神(かぐつちのかみ)」と、その本地仏「将軍地蔵」を祀る行事です。伏尾にも愛宕山があって伏尾でも火が点された頃がありました。ここの祠(ほこら)に本尊として祀られていた「将軍地蔵菩薩像」が久安寺に移されていることを住職に教わりました。この像は衣冠(いかん)束帯(そくたい)の姿に甲冑を(まと)い、右手(しゃく)(じょう)の代わりに松明(たいまつ)を、左手に如意(にょい)宝珠(ほうじゅ)を持ち馬に(またが)った木像です。江戸時代の作と思われ摂津国豊嶋郡伏尾村住人の記銘があります。珍しい将軍地蔵菩薩像で始めて見る貴重な遺物です。
将軍地蔵は鎌倉時代以降軍神として武家の間で信仰されました。京都愛宕山「白雲寺」・京都北白川瓜生山町「将軍地蔵堂」・京都清水寺などの将軍地蔵が有名です。

愛宕火(大一文字)と地蔵盆は地蔵菩薩の縁日8月24日に同時に行われます。京都の大文字送り火は8月16日で先祖の精霊を送る盂蘭盆(うらぼん)の行事です。同じ火文字ですが目的は全く違うのです。関東では同じ「加倶(かぐ)(つちの)(かみ)」を祀る浜松市の秋葉山が有名です。秋葉原は今やAKB(あきば)48で著名となっていますが、元は江戸の町の火災類焼を防ぐための原っぱだったのです。H23.10.(2011)

久安寺「座禅と朝粥の会」

久安寺「座禅と朝粥の会」
 台風12号のなごりの残る9月4日(日)午前8時から伏尾「久安寺」で「真言禅と朝粥の会」が開かれました。住職「国司(くにし) 禎相(ていしょう)」師による毎月第1日曜日に行われている行事です。墨色の空と深い木々の緑に囲まれた境内を、未だ雨足の激しい寺院石畳を「方丈」へ向かう。参禅者は夫婦2組を含む7名で初めて参加される方も多い。お互い見知らぬ仲だがあえて紹介することはせず、参禅の同じ目的で集う方々である。まずはお茶を頂き、参禅の注意を聞いて道場「御影堂」へ雨音を聞きながら師に続いて廊下・階段を進む。弘法大師が久安寺に逗留された庵(いおり)の跡に御影堂が建てられている。堂内は10数人が座ることの出来る位の広さで内陣正面には本尊「弘法大師木像坐像」が安置されている。まず香木(こうぼく)の粉末を掌に五体の清浄をします。座布団を三角に折り敷いて胡座(あぐら)し、左掌(てのひら)の上に右掌を乗せ両親指を合わせると逆ハート形となり心臓を表わします。これを丹田(下腹部)に置いて背筋をぐっと伸ばして仏前勤業が始まります。教本を捧げ持ち「自分を愛し、自分を愛するが故に、家族や他人を愛し、事業を愛し、尊い生命人生を愛する」という「菩提薩捶」(ぼだいさった⇒修行)の生き方を梵語(サンスクリット語)で音程をつけて声明(しょうみょう)します。教本には楽譜も書いてあります。「摩訶般若波羅蜜多心経」の一節も唱えます。そして照明が落とされて、ストレスを和らげる音楽セラピーを聴きながら瞑想(めいそう)(ぎょう)に入ります。30分程の座禅の後両手を頭の上に挙げて深呼吸をしながら身体に沿って降ろして呼吸を整え足腰の固まりをほぐして座禅は終わります。禅宗の座禅のような厳しさのない行法ですが、落ち着きのあるすっきりした現代風のモダンな座禅に親しみを感じました。
ここ御影堂の鴨居(かもい)には25体の「雲中供養菩薩像」があります。これは京都宇治「平等院」の像のレプリカとして造られたもので平等院の国宝が万一遺失した場合のため不燃材で木像そのままに造られています。ひっそりと保存されている貴重な宝物です。
お勤めのあとの温かい朝粥は梅干・沢庵・塩昆布・薄味の野菜煮つけ・そしてフルーツとお饅頭。胃に優しく理想的な朝食です。これぞ日本の味!
久安寺は間もなく「紅葉の寺」として秋の風情が楽しめる季節となります。

                     H23.10.(2011)

池田の街道

池田の街道

能勢街道
 大坂天神橋を起点として池田を経て能勢妙見山や亀岡に通じる街道です。能勢街道と呼ばれるのは明治以降で昔は大坂道・池田道と呼ばれていました。落語の「池田の猪買い」
 の話もほぼこの街道を通る筋書きとなっています。石橋から井口堂・鉢塚・本町・新町
 木部・古江と池田をほぼ縦断する池田の最も重要な街道です。
余野街道
 明治時代以降の呼び名で昔は久安寺道・亀山道・摂丹街道などと呼ばれていました。新町を分岐点として久安寺・止々呂美・余野・亀岡へと余野川に沿った街道です。
妙見道
 名前通り能勢妙見への参詣道です。余野街道・能勢街道でも妙見へは行けますが、近道となっています。古江・吉田・長尾山へと抜けます。
中山道(巡礼道)
 西国33ケ所23番札所「勝尾寺」から24番札所「中山寺」に至る道で箕面・池田から呉服橋を渡り山本・中山に至ります。
尼崎・池田道
 池田から伊丹を経て尼崎に通じる道。市内を南北に通り、伊丹市内では猪名川に沿って尼崎に入ります。
有馬道
 箕面市瀬川で西国街道から分かれて井口堂で能勢街道と交叉し神田を経て川西市加茂へ
 宝塚市小浜宿を経て有馬に至る道です。秀吉が有馬温泉へ湯治に行くとき池田にも立寄り有馬へ行きました。秀次・秀頼も同じコースで通りました。
西国街道
 京都東寺を起点として西宮に至り、山陽道に合流する重要な街道です。参勤交代や秀吉の山崎の合戦の「中国大返し」で有名な街道です。
町石(ちょういし)
 町石は主に社寺の参道にあり、距離を表す標識で「道標」と共に旅人への案内・目安に1町(丁)109mを単位として適当な場所建てられました。五輪塔形式のものが多く、

 「地・水・火・風・空」の宇宙を表わし、上に梵字が彫ってあります。
  H23.6.(2011)

天麩羅(てんぷら)

天麩羅(てんぷら)
 油が油揚げ・半平(はんぺん)天麩羅(てんぷら)として食用として使われるようになるのは江戸中期頃からです。寛延元年(1748)衣揚げテンプラのレシピが書かれた文献があり、安永(1772)の頃串刺のテンプラが江戸の町の屋台で売られていました。享和の末頃(1804)には店でも売られるようになり、嘉永年代(1848~)には天麩羅屋が定着して有名店が噂されるまでになりました。衣揚げのテンプラは主に江戸で、京都・大坂
では油揚げ・半平(はんぺん)薩摩揚げが売られていました。「テンプラ」はオランダ語と言われ、油で揚げる調理法は1560年又は1300年中頃にすでに伝えられたとされます。  H23.6.(2011)

油掛地蔵

油掛地蔵

 五月山の児童公園の下「愛宕道」に油まみれのお地蔵さん「油掛地蔵」があります。油をかけて拝むと諸願成就すると言う信仰は京都で山崎の油売りが寺の山門の前で転び油を大半流してしまい災難とあきらめて残りの油を地蔵さんに掛けたところ、それ以後日増しに商売が上手くなって長者となったという言い伝えから生まれたそうです。
 毎年8月24日行われる、池田伝統の火祭り「がんがら火」の大松明は愛宕神社の御神火を小松明に移し、この油掛け地蔵下で大松明に点火され市内を巡行します。ここがその出発点となっています。H23.6.(2011)