2016年2月6日土曜日

くれは・あやは伝説

「くれは・あやは伝説」
「くれは・あやは伝説」(おりひめ伝説)は良くごぞんじとは思いますが、池田では欠かす事の出来ない伝説として、あらためてぜひ覚え、伝えていただきたいものです。伝説ですから「つくり話」として受け止められがちです。確かにこれは1700年も前の古代のことです。日本の歴史が史実として認識されるのは第33代推古天皇(554~628)以降のことです。しかし「くれは・あやは伝説」は応神天皇の古墳とされる羽曳野市誉田(ほむた)の最大級の前方後円墳。仁徳天皇の古墳とされる堺市の世界最大級の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」が現存し「日本書紀」巻第10応神天皇記に書かれていることなど、これを源泉として創られたものであることは間違いありません。日本に帰還してからのことについては、記述がありませんので、池田好みで粉飾された部分があるかも知れません。阪上氏又は池田氏の誰かが創り上げた伝説ともいえます。
日本書紀によれば応神天皇37年(308年)春如月(はるきさらぎ)朔(ついたち)天皇は阿智主使(あちのおみ)・都加主使(つかのおみ)【註 中国後漢霊帝の曾孫・渡来人】を呉に遣わして縫工女(きぬぬひめ)を求められたとあります。現在の早春3月です。この70年前の春、邪馬台国「卑弥呼」(ひみこ)も魏の明帝へ使者を遣わし朝貢したことが「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)に書かれていました。ダイハツの工場が大分県中津市にあります。2003年までここの市長であった鈴木一郎氏の著書「卑弥呼の使い」を読むと当時の航海の様子が良く解ります。船は大木をくり抜いた丸木舟で舳先と舷側に波除の板と帆を立てた簡素なもので、若干の水・食糧【干物】を積み込み十数人が乗船出来る程度の船でした。また途中で新しい船に乗り換えたりしました。献上する奴婢も乗り込んでいました。武庫の湊【神功皇后新羅攻略基地】を出て天候を見ながら沿岸・島伝いに瀬戸内から博多へ朝鮮半島の西沿岸を伝い、黄海を渡り黄河又は長江(揚子江)の河口に入り河を遡上して都に至る航路でした。かなりの日数と危険を冒しての道のりでした。阿智主使の使節も船は構造船となりやや進歩しましたが、卑弥呼とほぼ同じ状況で渡航したと思われます。奈良時代の遣唐使船の頃となると船体は飛躍的に大型となり【平城1300年祭の会場に実物模型展示】九州から一気に中国へと航海するようになりました。しかし皇帝に正月に朝貢するためには秋に出航する必要があって玄界灘を暴風に曝されて航海する危険な冒険でした。
さて阿智主使・都加主使親子は高句麗の(こうくり) 【現在の北朝鮮】久礼波・久礼志
(くれは・くれし)を案内人として呉に到着し縫姫兄媛弟媛(えひめ・おとひめ)織姫
呉織(くれはとり)穴織(あやはとり)の四人を賜ったと記録されています。そして応神41年(313年)筑紫に到着そこで胸形大神(むなかたおおかみ)【福岡県沖ノ島宗像神社】に請われて兄媛を捧げて残る3名を連れて武庫の湊(むこのみなと)【現在の西宮・尼崎辺り】に入港しました。この間5年間を要する航海でした。しかし応神天皇はすでに崩御(ほうぎょ)されていたので仁徳天皇に奉ったとあります。4世紀前半大和朝廷の確立しようとする頃のことです。
呉の国は「三国志」の魏・蜀・呉の一つで中国江蘇省の蘇州・上海・南京の辺りにあった国です。【222年孫権が江南に建て229年国号を「呉」とし都を建業(南京)に置いた。】しかし阿智主使・都加主使親子が行ったころは中国史では三国時代(220~280)の後半から南北朝時代に入る頃で呉の国4世孫皓(そんこう)は280年に西晋(せいしん)に滅ぼされて呉の国はすでにないことになります。そこで私は日本書紀の呉は呉の国ではなく江南地域を日本では「くれ」また広く中国を「くれ」と呼んでいたのではないかと考えます。【中国伝来のものをすべて呉服・呉竹・くれない・呉鼓などと呼んでいる】
日本書紀には到着後の記述がありませんので、その後の足取りについては諸説があります。
西宮市松原町(阪神西宮東口)に松原神社があってその向かい側に「染殿池」「絹懸松」があって池田と同じ織姫伝説があります。
尼崎市塚口上坂部【塚口駅東へ・JR福知山線事故の場所の東】に伊居太古墳があって現在は伊居太神社となっています。【池田の伊居太神社の勧請宮・お旅所ともいわれる
その後の日本書紀雄略記(21代6代後)の記述では住之江から大和桧隈(やまとひのくま)に入る。とあり奈良県磯城郡(しきぐん)川西町(近鉄橿原線結崎駅西)の役場のすぐ傍に「糸井神社」がありここにも織姫伝説があります。
富山市呉羽町にも同じ言い伝えがあります。
これらは別人が何回も渡来していることを意味しています。
池田のくれはあやは伝説では尼崎からちぬの海(大阪湾)に入り難波高津宮に至り、仁徳天皇に拝謁(はいえつ)し帰国の報告と織姫の処遇の許可を得たのち猪名川を遡り唐船ケ淵(とうせんがふち)に上陸したとなっています。諸説のなかで池田の伝説は一番信憑性(しんぴょうせい)があると私は考えています。それは阿智主使と言う人は17県の民を率いて日本に渡来し、大和高田(高市郡桧前村)を賜り帰化したといわれ、河内土師氏の坂上田村麻呂の先祖に当たります。阪上氏一族は秦氏と共に池田にも沢山いて池田氏が来るまでは阪上氏が宇保を根城として池田を支配していました。
仁徳天皇は呉織・穴織を迎え入れ全国に養蚕を奨励し、繭を織殿に納めさせ、各地より婦女子を集め織殿で綾織と染色・裁縫の技術を教え広められました。そして池田は「呉服の里」と呼ばれようになりました。阿智主使はその功績によって「為奈県」(いなのあがた)
を采地(さいち)として天皇から賜りました。
【為奈県の範囲は東は猪名川(猪名川町・川西市。西は昆陽(伊丹市)。南は有岡(伊丹市)。北は長尾山一帯。池田の宇保は飛地】
その後970年頃「源満仲」(みなもとのみつなか)が多田に政所を置き、阪上頼次(さか
うえよりつぐ)を大領として委ね、ここを源氏発祥の地としました。
呉織・穴織は池田に逗留(とうりゅう)し100歳を越える歳まで技術の伝播に努められたと言われます。呉織は呉服神社に仁徳天皇と共に祀られ、穴織は伊居太神社に応神天皇・仁徳天皇と共に祀られ下の宮・上の宮と親しまれて、「呉服」発祥の宮として池田を代表しています。
建石町には織殿があったとされて「星の宮」として星降り伝説が伝えられます。また満寿美町の「染殿井」は池田市章となっています。呉織・穴織の墓?と言われる「姫室」「梅室」は染殿井とともに現在はジオマンションとなっている阪急電車車庫跡にありました。
阿智主使の墓(古墳)は宇保町の猪名津彦神社にありました。それにしても3人のうちの一人「弟媛」(おとひめ)は何処へ行ってしまったのでしょうか?

くれはあやは伝説に関係する事物
呉服神社 伊居太神社 摂社猪名津彦社 姫室 梅室 染殿井 星の宮 猪名津彦神社
唐船ケ淵 絹懸の松  呉織・穴織木像(寿命寺) 
呉服町・姫室町・室町・綾羽町の地名


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