2016年2月8日月曜日

池田酒のはなし

池田酒のはなし
日本の酒は古代神話の素盞鳴命(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)の伝説が始めで、五穀を口で咀嚼(そしゃく)し唾液の酵母で発酵させた酒と言われます。
また魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にも倭人は人性嗜酒(さけをたしなむ)と書かれています。
池田の酒は鎌倉時代にすでに醸造されていて、陸路で酒を甕(かめ)に入れて荷駄として運ばれていました。当時は濁酒(どぶろく)でした。
池田の酒造技術はどの様に伝わったかは明らかではありませんが、古代奈良の律令制「造酒司」(みきのつかさ)酒部氏の祖先を祀る延喜式内社「伊佐具神社」(いさぐじんじゃ)があります。(川辺郡園田村字坂部・尼崎市上坂部JR塚口駅東)祭神は応神帝御代に百済(くだら)より渡来し韓式醸造を伝えたとされる須曽己利(すそこり)とされます。坂部は酒部に通じます。ここには「伊居太神社」もあって、池田との関わりが強く感じられます。
清酒は14世紀中頃(南北朝の頃)「南都諸白」(なんともろはく)として奈良市菩提山町にある「正暦寺」(しょうれきじ)で造られた」とされて「日本清酒発祥の地」の石碑があります。正暦寺は興福寺の別院で僧坊酒(般若湯)として銘酒「菩提泉」が醸造されました。一説では伊丹市鴻池にも「清酒発祥の地」の伝説があり碑が建てられています。
諸白⇒清酒のこと。掛け米とこうじ共に精白米で造る酒
室町時代前期池田氏が美濃国池田ノ庄から多田源氏の縁(ゆかり)で入り、それまで呉服庄を支配していた阪上氏にかわり池田氏が地盤を固めます。池田充正の頃が池田氏の最盛期で大広寺を建て有名な連歌師「牡丹花肖柏」(ぼたんかしょうはく)を招き(1507)同族に連歌や芸能を広めます。牡丹花肖柏は池田の牡丹・香・池田酒をこよなく愛し「三愛記」を残しています。
池田で清酒が本格的に造られ有名になったのは室町時代後期頃からです。酒造家のなかでも「満願寺屋九郎右衛門」は祖先が朝廷の御酒寮(みきりょう)職人から醸造法を伝授されたとされ名実ともに池田を代表する酒造家として名を馳せました。
戦国時代となり、永禄11年(1568)遂に池田城は織田信長の標的となり落城。池田氏は大名に支配される国人として時代に流され280年間の歴史を終えて1604年没落しました。
秀吉の天下統一によって池田は天領となり街道が整備されて池田村は在郷町として発展して行きます。秀吉は有馬温泉への途中度々池田に立寄り池田酒・池田炭を褒め称えています。秀頼を残し秀吉が死んだ後、徳川家康は関が原の合戦に勝利し、いよいよ大阪城を攻め落とすべく慶長19年(1614)冬の陣に出陣します。奈良から大阪への古道、生駒の「暗峠」(くらがりとうげ)で休憩を取っていた時、池田村庄屋菊屋助兵衛・年寄牧屋又兵衛・淡路屋新兵衛が池田酒を荷駄につけて軍資金と共に陣中見舞として家康に差出しました。家康は大いに喜び褒美(ほうび)として御朱印の禁制状を下付しました。この禁制状の特権は池田の酒造業は勿論町人・百姓・馬借など池田村全体が庇護され繁栄しました。
酒造家は勢いに乗じて「下り酒」として江戸へ池田酒を送り江戸呉服町の出棚(支店)では満願寺屋の菰印「小判印養命酒」は最上の酒として人気がありました。最盛期の元禄10年(1697)には63株・醸造38戸・石高1万1千石超でその内、満願寺屋は1135石を占めていました。加えて運上冥加金御免(税の免除)休業御免(醸造制限なし)の特権があり、満願寺屋は「万貫寺屋」と呼ばれる程の資産家となりました。満願寺屋は川辺郡満願寺村(宝塚市山本)から、また「山本屋」も山本荘司阪上家の子孫で共に池田で酒造家として成功しました。この頃すでに伊丹・鴻池・山本・小浜・加茂・今津・西宮・灘など一帯で酒造りがされるようになっていました。中でも川辺郡長尾村(伊丹市)鴻池は尼子氏の勇将山中鹿之助の直孫山中新右衛門幸元が酒造りを始め澄酒の醸造に成功しそれを基に、その後莫大な富をなしました。(幸元は隠退後池田大広寺の禅門に入り同寺に墓地があります。)
さて栄華を極めた満願寺屋もやがて影を落とし衰退しはじめ、安永3年(1774)御朱印状事件が起きます。事件は、資金に窮した満願寺屋は同業の大和屋に300両を借ります。しかし返済が出来ず大和屋大三郎は奉行所に出訴。満願寺屋は朱印状を当家に下付されたものと、大和屋ほか6名は池田酒造連名に下付されてものと主張。示談がならず3年間の係争の結果安永5年(1776)満願寺屋は敗訴。朱印状は幕府に召上げられてしまいました。この事件後大和屋・鍵屋・山城屋が躍進。大和屋金五郎は1740石満願寺屋は650石と業界は新興が逆転しました。しかし事件は満願寺屋だけでなく酒造界全般に影響し、朱印状の特権に甘んじ保守消極的で狭小頑浅な池田の酒造業は伊丹・灘の進展に暫時衰退傾向へと向かって行きます。衰退の内因は馬借に頼る運搬費が原価を高め、地元郷土の消費が振るわず、他郷への株の分散持ち出しが原因となりました。外因として伊丹・灘の海運の有利・灘の宮水(硬水)の開発・水車による精米の機械化・醸造技術の革新・生産の効率化などが考えられます。魚崎の宮水の発見は池田の山邑氏と言われ、池田から醸造の技術を持ったものが多く伊丹・西宮・灘五郷へと移転しました。
【馬借⇒中世・近世に駄馬を使った運送業者。多くは馬持から馬を借りて営業した。】
しかし繁栄を極めた酒造家たちはその財力と才覚を発揮して大いに池田の文化の発展に寄与しました。文化に貢献した主な酒造家を例に上げると,大和屋山川正宣(やまかわまさのぶ)阪上(さかうえ)()(ろう)山川(やまかわ)星府(せいふ)(墓地「本養寺」) 鍵屋荒木(あらき)(らん)(こう)荒木李谿(あらきりけい)荒木梅閭(あらきばいろ)(墓地「西光寺」) 山本屋阪上(さかうえ)(とう)(まる)(墓地「西光寺」) 麹屋(甲字屋)稲束(いなずか)()(ちゅう)(墓地「西光寺」 山城屋葛野含(かどのがん)(しゅん)(さい)葛野宣(かどのぎ)(しゅん)(さい)(墓地「託明寺」) 菊屋井関(いせき)()(げん)(墓地「託明寺」)などの人があります。(それぞれの人の詳細は、拙著「池田歴史探訪」をご参考ください。)
天保年間(18301844)には老舗に混じって新興の酒造家が出現して来ます。大和屋・甲字屋・西田屋・丹波屋・酒屋・油屋・綿屋・山城屋・加茂屋・樽屋・小部屋・豊島屋・米谷屋などです。
そして大正時代になると、北村儀三郎・北村房吉・北村富松・北村吉右衛門・北村伊三郎・岸上又吉・吉田辨吉・西田庸之助の8家となりました。
池田酒が他郷に秀でて香味優れ強くて軽い辛口酒として愛飲され、高価格にも関わらず買われたのは能勢の米・猪名川の水と言われています。また久安寺川の上流平野・多田には炭酸泉が噴出し含有する有機物・無機物・水温などが微妙に醸造発酵素と関係していると考えられています。昔「井戸の辻」と呼ばれた栄本町は、この水が伏流水として湧き出る場所でこの辺りに酒造家が軒を並べて酒造りが隆盛をきわめました。
現在は「呉春」(呉春㈱)「緑一」(吉田酒造)の酒蔵だけとなりましたが、猪名川町の「花衣」能勢の「秋鹿」とともに地酒として全国的に有名人を含め愛飲家に喜ばれています。


井戸の辻⇒昔、有馬街道・巡礼道と能勢街道の交差する池田の中心地で「高札場」(こうさつば)と呼ぶ役所の法度・掟書き犯罪者の罪状などを書いた板札を高く掲げた一目を引く場所で毎月12回定例の「十二斎市」が開かれていました。今呉服神社にある「戎社」も元はここにありました。】H23.2.(2011)

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