釣鐘山(標高182m)
宝塚市長尾山連山の東端に釣鐘山があります。池田五月山の「大一文字」の愛宕火が点る「秀望台」と向かい合わせになっています。この山は昔為奈山(いなやま)山本山・栄根山(さかねやま)・平井山などと呼ばれていました。山麓の小戸村に(おおべむら⇒小戸神社のある辺り)仏像を背負った老人が訪れて「この村を飢饉から必ず救いましょう」と言うので村人は大切に老人をもてなしていたところ間もなく病に倒れ息の絶える前に「わしが死んだらこの山の頂上に埋め、7月(旧暦)中頃墓に参り火を焚いてくれ」と遺言し亡くなりました。埋葬した棺の中から12日間鐘の音が聞こえたと言われます。そして
享保17年(1732)からお盆の14・15の2日間火を焚いて村が飢饉に見舞われぬように小戸村が役に当たって毎年続けられました。やがて山に「懺悔坂」(ざんげざか)「感謝坂」「精進坂」と3本の山道が造られてこの道沿いに240個の火点を置いて火を焚くと丁度釣鐘の形となって、以後「釣鐘山」と呼ばれるようになりました。大正時代には5年に一度、昭和初期からは8月15日一回だけ点されていましたが、今は行われなくなってしまいました。戦前阪急電鉄が釣鐘の形に常夜燈を設置し車窓から釣鐘の火が見られた頃もありました。この山の辺りには多くの古墳があり古代から葬送の地となっていました。またこの山の奥には「石切山」があってここの石で古墳が造られ、江戸時代には火打石が発見され地元(川西市火打)の産業となっていました。池田も含めて一帯は古代には為奈県(いなのあがた)と呼ばれ猪名川中心に東西3里と決められて、古代は加茂族が勢力を持っていました。中世からは川辺郡と呼ばれるようになって、現在は兵庫県となっています。昔とは地域の境界の感覚がすっかり変わってしまいました。