2016年2月9日火曜日

釣鐘山

釣鐘山(標高182m)

宝塚市長尾山連山の東端に釣鐘山があります。池田五月山の「大一文字」の愛宕火が点る「秀望台」と向かい合わせになっています。この山は昔為奈山(いなやま)山本山・栄根山(さかねやま)・平井山などと呼ばれていました。山麓の小戸村に(おおべむら⇒小戸神社のある辺り)仏像を背負った老人が訪れて「この村を飢饉から必ず救いましょう」と言うので村人は大切に老人をもてなしていたところ間もなく病に倒れ息の絶える前に「わしが死んだらこの山の頂上に埋め、7月(旧暦)中頃墓に参り火を焚いてくれ」と遺言し亡くなりました。埋葬した棺の中から12日間鐘の音が聞こえたと言われます。そして

享保17年(1732)からお盆の14152日間火を焚いて村が飢饉に見舞われぬように小戸村が役に当たって毎年続けられました。やがて山に「懺悔坂」(ざんげざか)「感謝坂」「精進坂」と3本の山道が造られてこの道沿いに240個の火点を置いて火を焚くと丁度釣鐘の形となって、以後「釣鐘山」と呼ばれるようになりました。大正時代には5年に一度、昭和初期からは815日一回だけ点されていましたが、今は行われなくなってしまいました。戦前阪急電鉄が釣鐘の形に常夜燈を設置し車窓から釣鐘の火が見られた頃もありました。この山の辺りには多くの古墳があり古代から葬送の地となっていました。またこの山の奥には「石切山」があってここの石で古墳が造られ、江戸時代には火打石が発見され地元(川西市火打)の産業となっていました。池田も含めて一帯は古代には為奈県(いなのあがた)と呼ばれ猪名川中心に東西3里と決められて、古代は加茂族が勢力を持っていました。中世からは川辺郡と呼ばれるようになって、現在は兵庫県となっています。昔とは地域の境界の感覚がすっかり変わってしまいました。

池田の火祭り「大一文字」がなぜ市内から見えないの?

なぜ「大一文字」は市内から見えないの?

「愛宕火は 斜めにとぼる 池田かな」   稲束 香山(いなずか こうざん)

毎年8月24日「大一文字」の火文字は池田市内から見ようとしても斜めになって良く見えない。何故なんだろうと不思議に思われる方も多いと思います。確かな記述はないのですが私なりに推測してみますと、ひとつは愛宕神社の参詣道に当たることです。昔からの「愛宕道」は油掛地蔵前から(がんがら火小松明の降りて来るところ)登山道となっています。今も宝永元年(1704)「左 あたごみち・是より九町」(985m)の道標が残っています。ここから階段を登って公園をぬけて秀望台に至る道が昔からの参詣道となります。途中に気をつけていると町石があって愛宕神社までの距離があと何町あるか解ります。現在はすべて残っていないのですが「秀望台」は町石4町の場所位に当たります丁度五合目(145m)です。ここに愛宕神社一の鳥居が建てられています。元禄31690
甲賀谷町(城山町)が寄進した鳥居です。この鳥居の真上に「一の火文字」が文政年間の
始め(1804頃)に点されました。(現在はドライブウェイが出来たので下になりました)

火文字を焚くのに最も適した場所で、はからずも西向きなってしまったのではないかと思います。その他向い側の「釣鐘山」の点灯と競いあった。とか西方浄土へ向けてとか、昔の為奈県・川辺郡を意識したとか「唐船が淵」から見えるようになど考えられますが、現在最も美しくみえるのは「呉服橋」からの展望です。「大一文字」になったのは明治から大正初期の頃からです。

将軍地蔵

将軍地蔵菩薩
「がんがら火祭り」は火の神「加倶鎚神(かぐつちのかみ)」と、その本地仏「将軍地蔵」を祀る行事です。伏尾にも愛宕山があって伏尾でも火が点された頃がありました。ここの祠(ほこら)に本尊として祀られていた「将軍地蔵菩薩像」が久安寺に移されていることを住職に教わりました。この像は衣冠(いかん)束帯(そくたい)の姿に甲冑を(まと)い、右手(しゃく)(じょう)の代わりに松明(たいまつ)を、左手に如意(にょい)宝珠(ほうじゅ)を持ち馬に(またが)った木像です。江戸時代の作と思われ摂津国豊嶋郡伏尾村住人の記銘があります。珍しい将軍地蔵菩薩像で始めて見る貴重な遺物です。
将軍地蔵は鎌倉時代以降軍神として武家の間で信仰されました。京都愛宕山「白雲寺」・京都北白川瓜生山町「将軍地蔵堂」・京都清水寺などの将軍地蔵が有名です。

愛宕火(大一文字)と地蔵盆は地蔵菩薩の縁日8月24日に同時に行われます。京都の大文字送り火は8月16日で先祖の精霊を送る盂蘭盆(うらぼん)の行事です。同じ火文字ですが目的は全く違うのです。関東では同じ「加倶(かぐ)(つちの)(かみ)」を祀る浜松市の秋葉山が有名です。秋葉原は今やAKB(あきば)48で著名となっていますが、元は江戸の町の火災類焼を防ぐための原っぱだったのです。H23.10.(2011)

久安寺「座禅と朝粥の会」

久安寺「座禅と朝粥の会」
 台風12号のなごりの残る9月4日(日)午前8時から伏尾「久安寺」で「真言禅と朝粥の会」が開かれました。住職「国司(くにし) 禎相(ていしょう)」師による毎月第1日曜日に行われている行事です。墨色の空と深い木々の緑に囲まれた境内を、未だ雨足の激しい寺院石畳を「方丈」へ向かう。参禅者は夫婦2組を含む7名で初めて参加される方も多い。お互い見知らぬ仲だがあえて紹介することはせず、参禅の同じ目的で集う方々である。まずはお茶を頂き、参禅の注意を聞いて道場「御影堂」へ雨音を聞きながら師に続いて廊下・階段を進む。弘法大師が久安寺に逗留された庵(いおり)の跡に御影堂が建てられている。堂内は10数人が座ることの出来る位の広さで内陣正面には本尊「弘法大師木像坐像」が安置されている。まず香木(こうぼく)の粉末を掌に五体の清浄をします。座布団を三角に折り敷いて胡座(あぐら)し、左掌(てのひら)の上に右掌を乗せ両親指を合わせると逆ハート形となり心臓を表わします。これを丹田(下腹部)に置いて背筋をぐっと伸ばして仏前勤業が始まります。教本を捧げ持ち「自分を愛し、自分を愛するが故に、家族や他人を愛し、事業を愛し、尊い生命人生を愛する」という「菩提薩捶」(ぼだいさった⇒修行)の生き方を梵語(サンスクリット語)で音程をつけて声明(しょうみょう)します。教本には楽譜も書いてあります。「摩訶般若波羅蜜多心経」の一節も唱えます。そして照明が落とされて、ストレスを和らげる音楽セラピーを聴きながら瞑想(めいそう)(ぎょう)に入ります。30分程の座禅の後両手を頭の上に挙げて深呼吸をしながら身体に沿って降ろして呼吸を整え足腰の固まりをほぐして座禅は終わります。禅宗の座禅のような厳しさのない行法ですが、落ち着きのあるすっきりした現代風のモダンな座禅に親しみを感じました。
ここ御影堂の鴨居(かもい)には25体の「雲中供養菩薩像」があります。これは京都宇治「平等院」の像のレプリカとして造られたもので平等院の国宝が万一遺失した場合のため不燃材で木像そのままに造られています。ひっそりと保存されている貴重な宝物です。
お勤めのあとの温かい朝粥は梅干・沢庵・塩昆布・薄味の野菜煮つけ・そしてフルーツとお饅頭。胃に優しく理想的な朝食です。これぞ日本の味!
久安寺は間もなく「紅葉の寺」として秋の風情が楽しめる季節となります。

                     H23.10.(2011)

池田の街道

池田の街道

能勢街道
 大坂天神橋を起点として池田を経て能勢妙見山や亀岡に通じる街道です。能勢街道と呼ばれるのは明治以降で昔は大坂道・池田道と呼ばれていました。落語の「池田の猪買い」
 の話もほぼこの街道を通る筋書きとなっています。石橋から井口堂・鉢塚・本町・新町
 木部・古江と池田をほぼ縦断する池田の最も重要な街道です。
余野街道
 明治時代以降の呼び名で昔は久安寺道・亀山道・摂丹街道などと呼ばれていました。新町を分岐点として久安寺・止々呂美・余野・亀岡へと余野川に沿った街道です。
妙見道
 名前通り能勢妙見への参詣道です。余野街道・能勢街道でも妙見へは行けますが、近道となっています。古江・吉田・長尾山へと抜けます。
中山道(巡礼道)
 西国33ケ所23番札所「勝尾寺」から24番札所「中山寺」に至る道で箕面・池田から呉服橋を渡り山本・中山に至ります。
尼崎・池田道
 池田から伊丹を経て尼崎に通じる道。市内を南北に通り、伊丹市内では猪名川に沿って尼崎に入ります。
有馬道
 箕面市瀬川で西国街道から分かれて井口堂で能勢街道と交叉し神田を経て川西市加茂へ
 宝塚市小浜宿を経て有馬に至る道です。秀吉が有馬温泉へ湯治に行くとき池田にも立寄り有馬へ行きました。秀次・秀頼も同じコースで通りました。
西国街道
 京都東寺を起点として西宮に至り、山陽道に合流する重要な街道です。参勤交代や秀吉の山崎の合戦の「中国大返し」で有名な街道です。
町石(ちょういし)
 町石は主に社寺の参道にあり、距離を表す標識で「道標」と共に旅人への案内・目安に1町(丁)109mを単位として適当な場所建てられました。五輪塔形式のものが多く、

 「地・水・火・風・空」の宇宙を表わし、上に梵字が彫ってあります。
  H23.6.(2011)

天麩羅(てんぷら)

天麩羅(てんぷら)
 油が油揚げ・半平(はんぺん)天麩羅(てんぷら)として食用として使われるようになるのは江戸中期頃からです。寛延元年(1748)衣揚げテンプラのレシピが書かれた文献があり、安永(1772)の頃串刺のテンプラが江戸の町の屋台で売られていました。享和の末頃(1804)には店でも売られるようになり、嘉永年代(1848~)には天麩羅屋が定着して有名店が噂されるまでになりました。衣揚げのテンプラは主に江戸で、京都・大坂
では油揚げ・半平(はんぺん)薩摩揚げが売られていました。「テンプラ」はオランダ語と言われ、油で揚げる調理法は1560年又は1300年中頃にすでに伝えられたとされます。  H23.6.(2011)

油掛地蔵

油掛地蔵

 五月山の児童公園の下「愛宕道」に油まみれのお地蔵さん「油掛地蔵」があります。油をかけて拝むと諸願成就すると言う信仰は京都で山崎の油売りが寺の山門の前で転び油を大半流してしまい災難とあきらめて残りの油を地蔵さんに掛けたところ、それ以後日増しに商売が上手くなって長者となったという言い伝えから生まれたそうです。
 毎年8月24日行われる、池田伝統の火祭り「がんがら火」の大松明は愛宕神社の御神火を小松明に移し、この油掛け地蔵下で大松明に点火され市内を巡行します。ここがその出発点となっています。H23.6.(2011)

池田の油屋

油 屋
「井戸の辻」の東詰めに「油屋」がありました。現在はしもた屋となっていますが、池田市の「まちなみ保存整備事業」に協力されて江戸時代の趣そのままの景観を残す建築物に修築されています。ここ「山城家」は江戸後期から明治初年まで油屋を商い、それ以前は塩干物屋でした。今も「油屋さん」と年寄りの記憶に残っています。
 「油」は平安時代から戦国時代まで灯明・照明として主に「荏胡麻油」(えごまゆ)が用いられていました。灯油としての油商人が権益として組織されたのは承久の乱(1221年)の後政情不安な頃、京都山崎で「山崎油座」が結成されて大規模な灯油の商活動が開始されました。山崎油座は「男山」(石清水八幡宮)の神人(じじん)として権益を得て、八幡神威力の及ぶところ無税で専売を強行することが出来ました。隊商の護衛や既得権益の確保のために武装し、ときには武士に加勢する武装集団として山崎衆とも呼ばれました。

しかし「山崎油売り」も大坂近郊に生産され出した「菜種油」「綿実油」のために販路を奪われ元禄時代には敗退してしまいました。H23.6.(2011)

井戸の辻

井戸の辻
昔から現在の栄本町(8-1付近)は「井戸の辻」と呼ばれて来ました。「辻」と言うのは道路が十字形に交差している所です。ここは江戸時代「高札場」(御制札場)のあった場所で池田村の要(かなめ・へそ)とも言える拠点でした。またこの地点は猪名川と五月山の伏流水の集まる所で酒の醸造に適した良質の水が湧き出る井戸が多く掘られて「満願寺屋」「大和屋」「菊屋」「山本屋」など酒造家の密集する地域となっていました。そして何よりもここは「能勢街道」「有馬道」(中山道・巡礼道)「妙見道・余野街道」が交叉・分岐する交通の要衝に当たることです。
 この様な環境・条件に恵まれて旅人・巡礼・物資の運搬人などの通行の絶えない繁華な町が形成されて行きました。在郷町と呼ばれた池田村は物資の集散地として商業の中心地ともなり、能勢街道を挟んで西本町と東本町に区分されていました。米屋町・中之町なども商業地域として賑わいました。月に12回定期的に開かれた「十二斎市」・10月20日前後に行われた「誓文払い」には近郊から群集が詰掛け盛況を呈しました。小売・卸問屋の他に「料亭めんも楼」近代には「料亭尼安」「旅館冨士市」「山口銀行(神戸銀行前身)」「遊郭」「置屋」「車屋(人力車)」などが軒を並べました。呉服神社の「戎社」も元はここにありました。井戸の辻への昔のメイン道路は現在の「さくら通り」に当たります。
 現在残る井戸は「呉春」呉春㈱・「緑一」吉田酒造の酒蔵内と、ちょっと西の精肉店「日の出総本店」の裏に井戸が残されていてお稲荷さんが祀られています。
誓文払い⇒ 商人・遊女などが商売上の駆け引きで「嘘」をついた罪を拭うために神仏に参詣し罰を免じてもらう行事ですが商人はその意味でお客さんにお詫び感謝の気持ちを込めて「安売り」(大売出し)をしました。
高札場 ⇒ 役所の法度(ほっと)掟書き(おきてがき)犯罪者の罪状などを書いた板札を高く掲げた人目を引く場所

戎 社 ⇒ 池田恵比寿は元々呉服神社の社地にありましたが、町内の繁栄の証(あかし)にと巡礼橋(呉服橋)の東詰へ移し、更に栄本町の井戸の辻に祀られましたが、明治40年頃呉服神社に還りました。平成4年新築されて現在のお社となりました。

2016年2月8日月曜日

酒樽


樽(たる)と菰(こも)  【2月号池田酒の話の続きです】
桶(おけ)に底板と同じように蓋(ふた)を固定したものを樽(たる)と言います。
酒や醤油などの液体の醸造や貯蔵・運搬に使われました。それまでは陶磁器の壷が用いられていました。
古代の桶(おけ)は桧(ひのき)の薄片木を曲げて白樺や桜の皮で閉じた曲物(まげもの)
で作られていました。15世紀頃「台鉋」(だいかんな)【樫の台木に適切な角度で刃を仕込んだもの】が渡来して反鉋(そりがんな)が出来ました。それを使い吉野杉を年輪に沿って割り短冊形に湾曲に削って円筒形に並べて竹の「たが」【竹を割って束にして輪にしたもの】をはめて樽が作られるようになりました。そして江戸前期には広く普及しました。樽には運搬・貯蔵用のほかに祝儀用の「柄樽」が作られました。角のような一対の柄をつけて、黒や朱に塗られて贈答品として酒を贈りました。天野樽・柳樽・人形樽などと呼ばれています。
酒樽は「鏡開き」など祝い事に使われて、杉の木の香りが移った酒が喜ばれます。

酒樽に菰(こも)を被せた樽を「菰樽」と呼びます。池田・伊丹の酒は荷車や牛馬で「大物浜」(だいもつはま)【尼崎市大物町】まで運ばれ「樽廻船」で江戸へ運ばれました。その際に菰は酒樽の緩衝体となり、また牛馬の身体を傷つけないために工夫されました。
酒樽に菰が巻かれるようになると、広告宣伝のため酒名が記されるようになり次第に豪華な意匠が描かれるようになりました。酒造家の紋が「菰印」(商標)として飾られました。
菰造りは尼崎が有名で、現在も菰樽の殆どが尼崎市塚口本町の何軒かで生産されています。

満願寺屋 「小判印」    大和屋 「山三ツ印」    大和屋 「一鱗印」

山城屋  「山山印」    鍵 屋 「李白印」     などがありました。


酒の異名
ミワ(三輪)  ミキ(神酒) サカ(栄える)  竹葉(ちくよう) ササ(笹)
カスミ(霞)  はんにゃとう(般若湯)     キクスイ(菊水)


サケ(サは接頭語)H23. 3(2011)


太鼓集団「疾風」(かぜ)

  
感動を受ける太鼓集団「疾風」(かぜ)
2010124日池田市民文化会館・アゼリアホールで「絆」をテーマに結成十周年
記念公演が開催されました。池田市民なら知っている方も多い池田の誇りとしての和太鼓
集団「疾風」をあらためて紹介したいと思います。
保育所の保護者・保育士が地元古江から何かで発信しようと始められたのがきっかけで、
「青少年の育成」「伝統文化の伝承」「人権啓発」を目的として200012月に発足しました。南 昌哉さんをリーダーとして小学生1年生から大人までのメンバーが「太鼓」を通じて人と人のつながりを大切にすることをモットーとし活動を続けてこられました。
2004年にはNPO法人として登録され運営の基盤が出来上がり2009年度は各施設・地域のイベントなどに42回の出演を記録されています。
他の集団の「太鼓」の公演はよく聞きますが「疾風」の演技は迫力だけでなく感動を受けるのは何故なんだろう!何処が違うのか!不思議に思えてなりません。真似や技巧ではなくて団員の全員が一つの目的に全精力で打ち込む純粋な姿勢にあるのではないでしょうか。
南 昌哉さんのリーダーシップがその源泉にあると言えます。

南 昌哉さんのプロフィール
1979年池田市古江町生まれ。1994年細河中学校卒業、1997年池田北高等学校卒業
学生時代はラグビー部に所属、中学で主将、高校では副主将とリーダーシップを発揮、高校卒業後在学中にスカウトを受けたことのある世界的に活躍する太鼓表現師「時勝矢一路」氏と再会。地域の仲間達と手探りで太鼓活動を開始。太鼓集団「疾風」のリーダーとして
メンバーの指導から構成・作曲まで一人でこなし、2008年北海道・洞爺湖サミット前夜祭「大太鼓一本打ちコンテスト」で最優秀賞を受賞。2009年「東京国際和太鼓コンテスト」では優秀賞と和太鼓の世界でその名を轟かせている。

南 昌哉さんの姉「南 松美」さんは昨年12月CAFE BAR「M」をオープンされました。リーズナブルなお店でカウンターではショットバー的な気軽で、一見客もすぐ仲間となってカラオケを楽しんでいます。ボックス席では年配客が団欒しながら酒と憩いのひと時を過ご交流の場となってがんばっています。

池田生まれの吉田堅治画伯

全く知らなかった池田生まれの「吉田(よしだ) (けん)()」画伯

去る3月4日呉服小学校体育館で「吉田堅治画伯展」が開催された。郷土史家を自称している私としては、全く知らなかったことに恥ずかしい思いをしました。私だけではなく
たぶん池田市でも日本でも殆どの方がご存知ないのではないでしょうか?
平成22年8月9日NHKテレビ「生命」として放映された吉田堅治画伯は池田の下渋谷に生まれ太平洋戦争では特別攻撃隊となり出撃直前に敗戦となったため、危うくも尊い命を拾い帰還されました。昭和39年(1964)パリへ渡り苦しい生活に耐え、多くの人々の死と直面しながらも「死」を真摯(しんし)に見つめ深く追求して、死の悲しみを越え浄化し、「生」へと輪廻(りんね)させると言うその思想をモチーフとし「生命」(LaVie)としてカンバスに描き生涯を貫かれました。そして「平和と生命」の大切さを芸術によって表現されました。その作品の多くは抽象画で初期は平和と戦争を黒と白の油絵で描かれていましたが、彼の理解者メキシコ人のホセ氏との親交でメキシコの強烈な色彩に触れ蒼・朱・赤・金・銀などの色を使う画風を深めて行かれました。また彼はパリに43年の長期滞在していながらも日本人としての誇り・自覚を持ち続け異民族文化と融合しながらも日本画の心を秘めた抽象大作を描きました。作品の前に立つと抽象画であるだけに見る者を推考させて釘付けにする精神的迫力を感じます。そして私はその画風に尾形光琳「燕子花図屏風」(えんしかずびょうぶ)や「紅白梅図屏風」の絵を重ねてイメージしました。バイブルと般若心経を併せて信仰した彼の超宗教的作品はフランス・イギリスはじめヨーロッパ各都市で開かれた個展で人々に深い感銘を与えました。そして遂に1993年「大英博物館」主催の「第1回日本人作品展」が開催されるまで作品は認められるに至りました。
「命は神の分身である」と唱え、命の大切さ・与えられた命に報いる行動の大切さを作品を見る人々に考えさせました。
 吉田堅治画伯を尊敬すると同時に近親感を抱くのは彼が池田出身で昭和21年(1946
から5年間呉服小学校美術教員として指導に当たられ、実兄吉田 勇氏は池田小学校校長
として吉田堅治を理解援助し続けられたことです。
 吉田堅治画伯は2009224日パリで逝去されモンパルナス墓地に寛子夫人と共に永眠されています。享年85歳でした。
 偉大な業績を残された吉田堅治画伯を池田市民の誇りとし、永久に記憶に留めて頂きたいと願うばかりです。
なお、甥にあたる「吉田 元寿」氏からご提供頂いたDVD「吉田堅治:ARTIST OF THE SOUL」(72分)がありますのでご連絡頂ければ貸出しいたします。

呉服小学校での「吉田堅治画伯展」で掲示された吉田堅治氏の略歴・紹介を転載します。

         池田市出身の世界的画家吉田堅治を偲ぶ

世界で高く評価された池田・下渋谷生まれのすごい画家がいた。その名は吉田堅治である。吉田は池田師範在学中恩師古城戸優先生の「吉田よ、銃を取らずに絵筆を持て」の教えに深く感激しつつも、卒業を目前に太平洋戦争が激化するなか、海軍を志願して土浦航空隊で特別攻撃隊員として、「命をかけて国を守る」過酷な訓練を受け、死を覚悟する日々をった。しかし、出撃直前、敗戦となり尊い命を拾う。昭和21年子どもを中心にした民主教育をめざし、呉服小学校教員となり、さらに先輩荒木正三郎先生等の指導の下に日教組結成にも参加してゆいく、そして東京の学校に移って、恩師の「銃を取らずに絵筆を持て」の言葉を心に刻んで、油絵の制作に励む。モチーフは戦争と死、色彩は黒。平和と生命を黒と白で抽象する作品であった。だが、日本画壇での評価は低く失望した吉田は、芸術の都パリに単身旅立った。昭和391964年)東京オリンピックの年である。この決断を深く理解し援助し続けたのが、実兄吉田 勇(元池田小学校校長)であった。さらに、池田の教職員の先輩・後輩たちが、池田市中央公民館に吉田の作品展を開いて彼の門出を祝い、渡航費捻出に協力したことも幸いした。パリでは当初苦しい生活に耐えながら精進し、やがて、モンパルナスにあるフランス政府のアトリエを唯一のアジア人として借りられるまでに、彼の画業が認められるようになった。その頃の彼の作品は、黒と白から、その中に金彩・銀彩が微妙に融合したものになり、20ぶりに帰国して東京・京都・大阪で開催した個展においてそれらを観ることが出来た。吉田は金銀を光としてでなく色として描くようになっていった。また、吉田の芸術を高く評価するとともに、吉田の人柄と彼の人生観・世界観に共鳴する人物ホセ氏があらわれて、親交が深まり彼の強い協力を得て、共にイスラエルやメキシコ・エジブトへ旅行して、彼らの独特で強烈な民族的な色彩感覚を学び、日本民族固有の「色彩感」をもった作品群を生むこととなった。彼の作品は一貫して「生命inochi」を追究し続けたのである。これまでの黒・白を主調にしたもの、金彩・銀彩を一部に融合させたものから、光琳や等伯を思わせる金箔・銀箔を大胆に使いながらも金箔・銀箔を背景としてでなく強く前面に、いや全面に打ち出すように構成されたものを生み出していった。それは単なる金銀の輝きではなく、彼独自の深い蒼色と朱色・赤色とによく調和した金の渋色、銀の鈍色の光の色をその奥に漂わせる、見事な油彩による日本画的抽象の大作となって表現されていった。こうした作品を生む契機となったものは、下渋谷の旧家の日本画の名品であり、上原寛子との結婚と死別という極めて人間的な喜びと悲しみがあったことも否めない。吉田の作品に対する反響は、フランス・イギリスはじめヨーロッパ各都市で吉田を紹介する個展が開かれ、1993年(平成5年)大英博物館主催「第1回日本人作品展」に同館日本部長ローレンス・スミス氏によって吉田が選ばれ、大盛況であったことでもうかがわれる。著名な美術評論家たちは「新しい日本画である」と賛嘆した。2007年ロンドンのオクトーバー・ギャラリーでの個展では「見る者を敬虔な沈黙、あるいは涙を誘う」とガーディアン紙記者が批評。また、最後の個展となったパリのユネスコ本部の会場では、吉田の東西文化の和解と死者への鎮魂の祈りに多くの人が感動したという。吉田は後年深く仏に祈り、次々と画風を深めて「祈りと生命」を展開し続け、数多くの作品を創出していった。恩師松林寛之先生から授けられた法名「釈蒼空」を思わせる鮮やかでそして深い蒼。メキシコ風の原色を思わせながらも濁りのない深い赤。それらは吉田の「いのちを守る平和への願望」であり、その対極の黒は戦争や死に対する深い憤りと、言葉では表現しようもない吉田の心の深奥にある鬱屈、魂の祈りであったに相違ない。高名な美術評論家チャールズダーウエント氏は英インディペンデント紙に長文の追悼記事を捧げ、その末尾に「吉田堅治:1924524日、日本の大阪、池田で生まれる。2009224日、パリに死す。」と記している。こうした吉田堅治の戦中戦後の画業に接することは、今日のわれわれにとって大きな生き方を示唆するものと信じ、また、池田に生まれた世界的な画家の作品を鑑賞することによって、郷土池田に対する愛着の心を培うよい機会となることと信じ、「吉田堅治とその作品」を鑑賞する会を展開していきたいと願うものであります。



       

  吉 田 堅 治 の 略 歴

 1924(大13)大阪府池田市下渋谷に誕生
 1940(昭15)秦野小・附属高等科を経て大阪第二(池田)
         師範学校入学。美術部バスケット部で活躍
 1944(昭19)池田師範繰上げ卒業後海軍特攻隊で訓練を
受ける
 1946(昭21)池田市立呉服小学校教員
 1951(昭26)上京して美術教員
 1964(昭39)パリへ渡航
 1983(昭58)3ヶ月間日本帰国東京・京都・大阪で個展
 1989(平 元)オクトーバーギャラリーで英初の個展
 1990(平 2)イスラエル・エジプト・メキシコ・キューバ
の旅
 1991(平 3)メキシコ州グレングリーンで北米初の個展
 1993(平 5)大英博物館で存命画家初の個展
 1997(平 9)メキシコシティーの国立近代美術館で展示会
 2003(平15)英カンタベリー寺院で「生命」シリーズ
展示会
 2006(平18)仏ブロア城で個展
 2007(平19)オクトーバーギャラリーで「命と平和」
作品展
 2008(平20)パリ・ユネスコ本部で個展
 2009(平21)母国で死去。パリ・モンパルナス墓地に
妻寛子さんと共に永眠

池田の力士「猪名川」


池田の力士「猪名川」八百長・美談?
 昔から池田は相撲の盛んな土地柄でした。市内の寺院の墓地には15基ほどの関取の墓石があります。墓石は大形で一目にそれと解ります。昔は各小学校には土俵がありましたし、五月山にも土俵があって相撲大会や興行相撲も行われました。
 相撲が池田で盛んになったのは五月山の「愛宕神社」に原因があります。愛宕神社の祭神は火之迦(ひのか)具土(ぐちちの)大神(おおかみ)(たけ)(みか)(ずちの)大神(おおかみ)佐伯部(さえきべ)()(しん)の三柱ですがこのうち(たけ)(みか)(ずちの)大神(おおかみ)は武神で相撲道の祖神とされます。その縁起から神社の石段下自然の浅い谷(現在はアジサイの花壇)を利用しておあつらえ向きの相撲場として土俵を築き毎年8月24日の縁日には昼間から盛んに相撲が行われていました。また猪名川の河原でも相撲の興行が開かれました。
 相撲は弥生時代から稲作に伴う農耕儀礼として原始的な形式がありました。これが奈良時代天皇家に取り入れられ年中行事として七夕の余興に行われるようになり、やがて平安時代には国家行事となって七月七日「相撲節」(すまいのせち)となりました。この起源は
日本書紀の巻第6垂仁天皇7年7月に天皇は当摩蹶速(たいまのけはや・たぎまのくえはや)と言う天下の勇士がいると聞くが、これに比するものはいないのか?と問われた。
すると臣下の一人が出雲の国に「野見宿禰」(のみのすくね)と言う勇士がおりますと答えました。そして7月7日二人の決闘相撲が帝の御前で行われ、野見宿禰が当摩蹶速に勝利し朝廷に仕えることになったことが書かれています。以来「野見宿禰」は力士の始祖とされています。
江戸時代になると力士は関取とよばれて職業化して寺社の奉納相撲・勧進相撲として興行相撲が各地で催されるようになります。関取の階級も創られ大関・関脇・小結・前頭・
十両となり大関が最高位でした。横綱の位が出来たのは明治42年(1909年)からでそれ以前の力士大関には横綱免許が与えられ初代横綱は「明石志賀之助」と伝承されています。
 さて、「関取千両幟」として浄瑠璃・歌舞伎となって今も上演されている芝居のヒーローは池田の関脇「猪名川政右衛門」です。相手の関取は大阪天満の「千田川吉五郎」で芝居では「岩川」と「鉄ケ嶽」と言う名で登場します。話の筋書きは、岩川(猪名川)のひいき客「鶴屋礼三郎」は新地遊女「錦木」(にしきぎ)とねんごろとなり身請けをしたいと
200両を用意していました。ところが相手の鉄ケ嶽のひいき客「市原九平太」も錦木に
横恋慕していて悪巧みを働き岩川の200両を騙し取ります。岩川はそれを聞いて金を取り返しに乗り込みます。すると九平太は俺のひいきする鉄ケ嶽に負けてくれたら返してやろうと難題をもちかけます。悩んだ岩川は礼三郎の義理からやむなく八百長を承知して帰ります。そして鉄ケ嶽との対戦の当日、土俵に上がると、客席から「200両進上!」の
声がかかり、それを聞いた岩川は喜び八百長をひるがえし鉄ケ嶽を投げ飛ばし勝ち名乗りと賞金200両を受け取り勇んで家に着くと恋女房「おとわ」が駕篭に乗せられ遊里へ身売りされるところでした。女房に聞くと夫の八百長を阻止するため自ら身売りを決めて200両を工面したと泣く泣く伝えられました。愕然とした岩川は女房の心情に打たれ呆然

と立ちすくむのでした。この芝居の初演は大阪竹本座で明和4年8月猪名川29歳の時でした。芝居の上演で猪名川・千田川の取組みは人気が上がり場銭も高く、客の賭金が大きくなり家を賭ける者も出たと言われます。やがて猪名川は江戸相撲にも出る人気力士となり江戸での総取組み145場で勝星91負星23の勝率8割の成績をおさめました。
 いま相撲協会の八百長問題が角界に激震をもたらしていますが、西光寺(新町1-1)
にある墓で猪名川関はどう思っているのでしょう。

猪名川政右衛門の経歴

元文 4年(1739) 池田に生まれる。幼少より力持ちで愛宕の相撲場に足を踏みいれる。
          本名次郎吉。酒造家「多田屋」(菰印猪名川)出身
宝暦 3年(175315歳で大阪藤島部屋に弟子入り
宝暦 6年(17565月初土俵17歳 四股名を「猪名川」と名乗る
          9月番付に載る
宝暦12年(1762)入幕東20枚目
明和 5年(176810月前頭筆頭次郎吉を政右衛門に改名30
明和 6年(176910月東関脇となる。
寛政 4年(17927月引退藤島部屋2代目となり弟子を指導する
寛政12年(1800109日大阪伏見堀で62歳で没す
          墓地は辻ケ池「梅誉庵」から「西光寺」に移される
          戒名は「旭誉円月岳映禅定門」

   酒造家「多田屋」は川西市西多田の木下家で池田に出て酒造を始める。酒の銘は「猪名川」で正保元年(144)がんから火事件の発祥に関わった当主の一人です。

*猪名川関の活躍した頃の大関(横綱)は「谷風梶之助」「小野川喜三郎」の時代でした。



「マチカネワニ」って見たことありますか?

「マチカネワニ」って見たことありますか?
 つい先頃、兵庫県丹波市で小学3年生が11千年前の草食恐竜「鎧竜」(よろいりゅう)の歯の化石を発見しました。白亜紀前期日本最古の化石です。このニュースを見て思いだしました。池田にはこれに劣らぬすごい化石があるのだ!・・
石橋「待兼山」阪大豊中キャンバス理学部付近から昭和39年(1964)5月3日、当時の高校生が「マチカネワニ」のほぼ全身の化石を発見したのです。新生代・更新生中期の地層(大阪層群カスリ火山灰層)からと言われますから約40~50万年前の化石です。これは日本で発見されたワニ類の化石の第一号となります。
阪大の構内入口にある「大阪大学総合学術博物館」にその実物が展示されています。全長8mに及ぶレプリカも玄関の壁に張り付いていて驚きます。発見後学者が調査研究された結果、このワニはクロコダイル科マレーガビアル属の新種と判定され、学名「トミストマ・マチカネンセ」と名付けられました。またこのワニは下顎切断・後ろ足骨折の重傷にかかわらず暫く生きていたことが解りました。縄張り争いか雌の争奪の争いだと思われます。この頃には温帯森林があり、トウヨウゾウ・オオツノジカ・シナサイ・オオカミ・タヌキ・ハリネズミ・モグラ・ハタネズミなどもいたそうです。またこの頃は大阪湾が大きくいり込んでいて待兼山は海岸線でした。ここまでワニが泳いで来ていたのです。また50万年前は旧石器時代にあたり、僅かの人間が狩猟生活をしていたかも知れません。恐竜と同じ頃出現し今も生き延びているワニたちの生命力に親しみを感じ、当時の情景を想像すると神秘的で不思議な気持ちになります。

待兼山は平安時代から「ほととぎす」や「シカ」の名所として貴族が訪れていました。
清少納言の「枕草子」で山の一つに紹介されていますし、待兼山の「まちかね」が来ぬ人を待ちわびる歌枕として和歌に多く詠まれました。

「ほととぎす 人待つ山になくなれば 我うちつけに 恋まさりけり」  紀貫之
「夜をかさね 待兼山のほととぎす  雲井のよそに 一声ぞきく    新古今集
「津の国のまつかね山の呼子鳥(ほととぎす)なけど今くと言う人もなし」摂津名所図会

博物館の裏は里山となっていて四季折々の風情を楽しみながらの散策も良いものです。花崗岩の三角点(三角測量の基準点)もありますよ。見学後はミュウジアムカフェでスナックやコーヒでゆっくりとした時間を過ごされてはいかがですか。ぜひどうぞ!
【博物館は無料・コーヒは200円・営業時間10:0018:00・日祝休業】



池田酒のはなし

池田酒のはなし
日本の酒は古代神話の素盞鳴命(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)の伝説が始めで、五穀を口で咀嚼(そしゃく)し唾液の酵母で発酵させた酒と言われます。
また魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にも倭人は人性嗜酒(さけをたしなむ)と書かれています。
池田の酒は鎌倉時代にすでに醸造されていて、陸路で酒を甕(かめ)に入れて荷駄として運ばれていました。当時は濁酒(どぶろく)でした。
池田の酒造技術はどの様に伝わったかは明らかではありませんが、古代奈良の律令制「造酒司」(みきのつかさ)酒部氏の祖先を祀る延喜式内社「伊佐具神社」(いさぐじんじゃ)があります。(川辺郡園田村字坂部・尼崎市上坂部JR塚口駅東)祭神は応神帝御代に百済(くだら)より渡来し韓式醸造を伝えたとされる須曽己利(すそこり)とされます。坂部は酒部に通じます。ここには「伊居太神社」もあって、池田との関わりが強く感じられます。
清酒は14世紀中頃(南北朝の頃)「南都諸白」(なんともろはく)として奈良市菩提山町にある「正暦寺」(しょうれきじ)で造られた」とされて「日本清酒発祥の地」の石碑があります。正暦寺は興福寺の別院で僧坊酒(般若湯)として銘酒「菩提泉」が醸造されました。一説では伊丹市鴻池にも「清酒発祥の地」の伝説があり碑が建てられています。
諸白⇒清酒のこと。掛け米とこうじ共に精白米で造る酒
室町時代前期池田氏が美濃国池田ノ庄から多田源氏の縁(ゆかり)で入り、それまで呉服庄を支配していた阪上氏にかわり池田氏が地盤を固めます。池田充正の頃が池田氏の最盛期で大広寺を建て有名な連歌師「牡丹花肖柏」(ぼたんかしょうはく)を招き(1507)同族に連歌や芸能を広めます。牡丹花肖柏は池田の牡丹・香・池田酒をこよなく愛し「三愛記」を残しています。
池田で清酒が本格的に造られ有名になったのは室町時代後期頃からです。酒造家のなかでも「満願寺屋九郎右衛門」は祖先が朝廷の御酒寮(みきりょう)職人から醸造法を伝授されたとされ名実ともに池田を代表する酒造家として名を馳せました。
戦国時代となり、永禄11年(1568)遂に池田城は織田信長の標的となり落城。池田氏は大名に支配される国人として時代に流され280年間の歴史を終えて1604年没落しました。
秀吉の天下統一によって池田は天領となり街道が整備されて池田村は在郷町として発展して行きます。秀吉は有馬温泉への途中度々池田に立寄り池田酒・池田炭を褒め称えています。秀頼を残し秀吉が死んだ後、徳川家康は関が原の合戦に勝利し、いよいよ大阪城を攻め落とすべく慶長19年(1614)冬の陣に出陣します。奈良から大阪への古道、生駒の「暗峠」(くらがりとうげ)で休憩を取っていた時、池田村庄屋菊屋助兵衛・年寄牧屋又兵衛・淡路屋新兵衛が池田酒を荷駄につけて軍資金と共に陣中見舞として家康に差出しました。家康は大いに喜び褒美(ほうび)として御朱印の禁制状を下付しました。この禁制状の特権は池田の酒造業は勿論町人・百姓・馬借など池田村全体が庇護され繁栄しました。
酒造家は勢いに乗じて「下り酒」として江戸へ池田酒を送り江戸呉服町の出棚(支店)では満願寺屋の菰印「小判印養命酒」は最上の酒として人気がありました。最盛期の元禄10年(1697)には63株・醸造38戸・石高1万1千石超でその内、満願寺屋は1135石を占めていました。加えて運上冥加金御免(税の免除)休業御免(醸造制限なし)の特権があり、満願寺屋は「万貫寺屋」と呼ばれる程の資産家となりました。満願寺屋は川辺郡満願寺村(宝塚市山本)から、また「山本屋」も山本荘司阪上家の子孫で共に池田で酒造家として成功しました。この頃すでに伊丹・鴻池・山本・小浜・加茂・今津・西宮・灘など一帯で酒造りがされるようになっていました。中でも川辺郡長尾村(伊丹市)鴻池は尼子氏の勇将山中鹿之助の直孫山中新右衛門幸元が酒造りを始め澄酒の醸造に成功しそれを基に、その後莫大な富をなしました。(幸元は隠退後池田大広寺の禅門に入り同寺に墓地があります。)
さて栄華を極めた満願寺屋もやがて影を落とし衰退しはじめ、安永3年(1774)御朱印状事件が起きます。事件は、資金に窮した満願寺屋は同業の大和屋に300両を借ります。しかし返済が出来ず大和屋大三郎は奉行所に出訴。満願寺屋は朱印状を当家に下付されたものと、大和屋ほか6名は池田酒造連名に下付されてものと主張。示談がならず3年間の係争の結果安永5年(1776)満願寺屋は敗訴。朱印状は幕府に召上げられてしまいました。この事件後大和屋・鍵屋・山城屋が躍進。大和屋金五郎は1740石満願寺屋は650石と業界は新興が逆転しました。しかし事件は満願寺屋だけでなく酒造界全般に影響し、朱印状の特権に甘んじ保守消極的で狭小頑浅な池田の酒造業は伊丹・灘の進展に暫時衰退傾向へと向かって行きます。衰退の内因は馬借に頼る運搬費が原価を高め、地元郷土の消費が振るわず、他郷への株の分散持ち出しが原因となりました。外因として伊丹・灘の海運の有利・灘の宮水(硬水)の開発・水車による精米の機械化・醸造技術の革新・生産の効率化などが考えられます。魚崎の宮水の発見は池田の山邑氏と言われ、池田から醸造の技術を持ったものが多く伊丹・西宮・灘五郷へと移転しました。
【馬借⇒中世・近世に駄馬を使った運送業者。多くは馬持から馬を借りて営業した。】
しかし繁栄を極めた酒造家たちはその財力と才覚を発揮して大いに池田の文化の発展に寄与しました。文化に貢献した主な酒造家を例に上げると,大和屋山川正宣(やまかわまさのぶ)阪上(さかうえ)()(ろう)山川(やまかわ)星府(せいふ)(墓地「本養寺」) 鍵屋荒木(あらき)(らん)(こう)荒木李谿(あらきりけい)荒木梅閭(あらきばいろ)(墓地「西光寺」) 山本屋阪上(さかうえ)(とう)(まる)(墓地「西光寺」) 麹屋(甲字屋)稲束(いなずか)()(ちゅう)(墓地「西光寺」 山城屋葛野含(かどのがん)(しゅん)(さい)葛野宣(かどのぎ)(しゅん)(さい)(墓地「託明寺」) 菊屋井関(いせき)()(げん)(墓地「託明寺」)などの人があります。(それぞれの人の詳細は、拙著「池田歴史探訪」をご参考ください。)
天保年間(18301844)には老舗に混じって新興の酒造家が出現して来ます。大和屋・甲字屋・西田屋・丹波屋・酒屋・油屋・綿屋・山城屋・加茂屋・樽屋・小部屋・豊島屋・米谷屋などです。
そして大正時代になると、北村儀三郎・北村房吉・北村富松・北村吉右衛門・北村伊三郎・岸上又吉・吉田辨吉・西田庸之助の8家となりました。
池田酒が他郷に秀でて香味優れ強くて軽い辛口酒として愛飲され、高価格にも関わらず買われたのは能勢の米・猪名川の水と言われています。また久安寺川の上流平野・多田には炭酸泉が噴出し含有する有機物・無機物・水温などが微妙に醸造発酵素と関係していると考えられています。昔「井戸の辻」と呼ばれた栄本町は、この水が伏流水として湧き出る場所でこの辺りに酒造家が軒を並べて酒造りが隆盛をきわめました。
現在は「呉春」(呉春㈱)「緑一」(吉田酒造)の酒蔵だけとなりましたが、猪名川町の「花衣」能勢の「秋鹿」とともに地酒として全国的に有名人を含め愛飲家に喜ばれています。


井戸の辻⇒昔、有馬街道・巡礼道と能勢街道の交差する池田の中心地で「高札場」(こうさつば)と呼ぶ役所の法度・掟書き犯罪者の罪状などを書いた板札を高く掲げた一目を引く場所で毎月12回定例の「十二斎市」が開かれていました。今呉服神社にある「戎社」も元はここにありました。】H23.2.(2011)

なんやかんや帖

なんやかんや帖
私の手元には、いつも「なんやかんや帖?」が在る。新聞・TV・ラジオから地元のニュース記事までジャンルを問わずさまざまの情報から話題となるものを選んで書き留めたオリジナルノートである。
今の時代、殆どの人が情報の洪水を聞き流し見捨てて忘れて行く流れのなかで話題となるトピックスが結構あるものだ。選んだなかで大事なことはそのままの受け売りではなく自らが体験し、更に内容を深めて自分のものとして語ることである。「なんやかんや帖」から相手に合いそうな話しをすると「へぇ~そんなん知らんかった!」「へぇ~すごい!そんなこと知ってはるの~」とか言われて、つい話題がはずむ。博学の師匠などとおだてられることもあるが、「唯のMEMO魔」でしかない。逆に会話の中から知らなかった若い人達の知識を教えてもらうことが多い。そして誰とでも楽しい時間と空間を過ごせる幸せを感じる。
さて最近のノートの一部を紹介しよう、ノルウェイの森(映画)・斉藤智裕(水島ヒロ)著「KAGEROU」・電子書籍元年・MARUZEN&ジュンク堂茶屋町出店・中高生のギャル語・植村花菜「トイレの神様」紅白出場・流行語大賞・日本の携帯はガラ系・ロスジェネ(ロストジェネレーション)・ミドリムシのカステラ・佐野有美(あみ)さん「手足のないチアリーダー」・・・などが書いてある。話題は項目に関連して次々に広がり生まれて尽きない。それでも最近はこんなことを思う。「何一つ知らなきを知る傘寿かな」



お正月の串柿

お正月「お鏡餅飾りの串柿」
450年の歴史をもつ和歌山県かつらぎ町で1000万本が生産されます。
串の刺し方は縁起をかついで「夫婦にこにこ仲睦まじく」○○ ○○○○○○ ○○
「一人一人がみな(三)幸せに」○ ○○○ ○ と工夫されています。
また飾りは「三種の神器」を表わすとされて「鏡」は餅・「勾玉」は橙・「剣」は串柿だそうです。このほかお正月の風習には日本人ならではの伝統・慣わし・縁起があって子どもたちに話し聞かせて伝えてほしいものです。H23.1.(2011)





2016年2月6日土曜日

くれは・あやは伝説

「くれは・あやは伝説」
「くれは・あやは伝説」(おりひめ伝説)は良くごぞんじとは思いますが、池田では欠かす事の出来ない伝説として、あらためてぜひ覚え、伝えていただきたいものです。伝説ですから「つくり話」として受け止められがちです。確かにこれは1700年も前の古代のことです。日本の歴史が史実として認識されるのは第33代推古天皇(554~628)以降のことです。しかし「くれは・あやは伝説」は応神天皇の古墳とされる羽曳野市誉田(ほむた)の最大級の前方後円墳。仁徳天皇の古墳とされる堺市の世界最大級の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」が現存し「日本書紀」巻第10応神天皇記に書かれていることなど、これを源泉として創られたものであることは間違いありません。日本に帰還してからのことについては、記述がありませんので、池田好みで粉飾された部分があるかも知れません。阪上氏又は池田氏の誰かが創り上げた伝説ともいえます。
日本書紀によれば応神天皇37年(308年)春如月(はるきさらぎ)朔(ついたち)天皇は阿智主使(あちのおみ)・都加主使(つかのおみ)【註 中国後漢霊帝の曾孫・渡来人】を呉に遣わして縫工女(きぬぬひめ)を求められたとあります。現在の早春3月です。この70年前の春、邪馬台国「卑弥呼」(ひみこ)も魏の明帝へ使者を遣わし朝貢したことが「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)に書かれていました。ダイハツの工場が大分県中津市にあります。2003年までここの市長であった鈴木一郎氏の著書「卑弥呼の使い」を読むと当時の航海の様子が良く解ります。船は大木をくり抜いた丸木舟で舳先と舷側に波除の板と帆を立てた簡素なもので、若干の水・食糧【干物】を積み込み十数人が乗船出来る程度の船でした。また途中で新しい船に乗り換えたりしました。献上する奴婢も乗り込んでいました。武庫の湊【神功皇后新羅攻略基地】を出て天候を見ながら沿岸・島伝いに瀬戸内から博多へ朝鮮半島の西沿岸を伝い、黄海を渡り黄河又は長江(揚子江)の河口に入り河を遡上して都に至る航路でした。かなりの日数と危険を冒しての道のりでした。阿智主使の使節も船は構造船となりやや進歩しましたが、卑弥呼とほぼ同じ状況で渡航したと思われます。奈良時代の遣唐使船の頃となると船体は飛躍的に大型となり【平城1300年祭の会場に実物模型展示】九州から一気に中国へと航海するようになりました。しかし皇帝に正月に朝貢するためには秋に出航する必要があって玄界灘を暴風に曝されて航海する危険な冒険でした。
さて阿智主使・都加主使親子は高句麗の(こうくり) 【現在の北朝鮮】久礼波・久礼志
(くれは・くれし)を案内人として呉に到着し縫姫兄媛弟媛(えひめ・おとひめ)織姫
呉織(くれはとり)穴織(あやはとり)の四人を賜ったと記録されています。そして応神41年(313年)筑紫に到着そこで胸形大神(むなかたおおかみ)【福岡県沖ノ島宗像神社】に請われて兄媛を捧げて残る3名を連れて武庫の湊(むこのみなと)【現在の西宮・尼崎辺り】に入港しました。この間5年間を要する航海でした。しかし応神天皇はすでに崩御(ほうぎょ)されていたので仁徳天皇に奉ったとあります。4世紀前半大和朝廷の確立しようとする頃のことです。
呉の国は「三国志」の魏・蜀・呉の一つで中国江蘇省の蘇州・上海・南京の辺りにあった国です。【222年孫権が江南に建て229年国号を「呉」とし都を建業(南京)に置いた。】しかし阿智主使・都加主使親子が行ったころは中国史では三国時代(220~280)の後半から南北朝時代に入る頃で呉の国4世孫皓(そんこう)は280年に西晋(せいしん)に滅ぼされて呉の国はすでにないことになります。そこで私は日本書紀の呉は呉の国ではなく江南地域を日本では「くれ」また広く中国を「くれ」と呼んでいたのではないかと考えます。【中国伝来のものをすべて呉服・呉竹・くれない・呉鼓などと呼んでいる】
日本書紀には到着後の記述がありませんので、その後の足取りについては諸説があります。
西宮市松原町(阪神西宮東口)に松原神社があってその向かい側に「染殿池」「絹懸松」があって池田と同じ織姫伝説があります。
尼崎市塚口上坂部【塚口駅東へ・JR福知山線事故の場所の東】に伊居太古墳があって現在は伊居太神社となっています。【池田の伊居太神社の勧請宮・お旅所ともいわれる
その後の日本書紀雄略記(21代6代後)の記述では住之江から大和桧隈(やまとひのくま)に入る。とあり奈良県磯城郡(しきぐん)川西町(近鉄橿原線結崎駅西)の役場のすぐ傍に「糸井神社」がありここにも織姫伝説があります。
富山市呉羽町にも同じ言い伝えがあります。
これらは別人が何回も渡来していることを意味しています。
池田のくれはあやは伝説では尼崎からちぬの海(大阪湾)に入り難波高津宮に至り、仁徳天皇に拝謁(はいえつ)し帰国の報告と織姫の処遇の許可を得たのち猪名川を遡り唐船ケ淵(とうせんがふち)に上陸したとなっています。諸説のなかで池田の伝説は一番信憑性(しんぴょうせい)があると私は考えています。それは阿智主使と言う人は17県の民を率いて日本に渡来し、大和高田(高市郡桧前村)を賜り帰化したといわれ、河内土師氏の坂上田村麻呂の先祖に当たります。阪上氏一族は秦氏と共に池田にも沢山いて池田氏が来るまでは阪上氏が宇保を根城として池田を支配していました。
仁徳天皇は呉織・穴織を迎え入れ全国に養蚕を奨励し、繭を織殿に納めさせ、各地より婦女子を集め織殿で綾織と染色・裁縫の技術を教え広められました。そして池田は「呉服の里」と呼ばれようになりました。阿智主使はその功績によって「為奈県」(いなのあがた)
を采地(さいち)として天皇から賜りました。
【為奈県の範囲は東は猪名川(猪名川町・川西市。西は昆陽(伊丹市)。南は有岡(伊丹市)。北は長尾山一帯。池田の宇保は飛地】
その後970年頃「源満仲」(みなもとのみつなか)が多田に政所を置き、阪上頼次(さか
うえよりつぐ)を大領として委ね、ここを源氏発祥の地としました。
呉織・穴織は池田に逗留(とうりゅう)し100歳を越える歳まで技術の伝播に努められたと言われます。呉織は呉服神社に仁徳天皇と共に祀られ、穴織は伊居太神社に応神天皇・仁徳天皇と共に祀られ下の宮・上の宮と親しまれて、「呉服」発祥の宮として池田を代表しています。
建石町には織殿があったとされて「星の宮」として星降り伝説が伝えられます。また満寿美町の「染殿井」は池田市章となっています。呉織・穴織の墓?と言われる「姫室」「梅室」は染殿井とともに現在はジオマンションとなっている阪急電車車庫跡にありました。
阿智主使の墓(古墳)は宇保町の猪名津彦神社にありました。それにしても3人のうちの一人「弟媛」(おとひめ)は何処へ行ってしまったのでしょうか?

くれはあやは伝説に関係する事物
呉服神社 伊居太神社 摂社猪名津彦社 姫室 梅室 染殿井 星の宮 猪名津彦神社
唐船ケ淵 絹懸の松  呉織・穴織木像(寿命寺) 
呉服町・姫室町・室町・綾羽町の地名


市役所前「モニュメント時計台」

市役所前「モニュメント時計台」    

池田市役所を訪れる人は必ず目にすると言っても良い「時計台」が出来ました。何故これまでここに時計がなかったのだろうかと不思議に思われます。市民に望まれた時計台が平成22年21日 池田市長 倉田 薫はじめ来賓多数の出席のもと、贈呈除幕式を行いました。市花「さつきつつじ」の植込みの中にステンレス・スチールで造られたハートやスプリングが愛と躍動を感じさせ全体として未来への羽ばたき可愛らしく表現されています。
この時計台は宝塚造形芸術大学のデザインコンペで選ばれた、上田麻里菜さんの作品でテーマは「人間愛」です。製作は枚方ライオンズクラブメンバー(株)マツムラ 松村和夫氏によるものです。基盤の児童画は池田ライオンズクラブが毎年市内小学校の児童に依頼している「国際平和ポスター」作品から選ばれた優秀作品で、一年間掲示します。
この場所は池田の人気スポット「インスタント・ラーメン発明記念館」への観光バスの乗降場となっていて、毎日1000名以上の見学者が全国から訪れます。国内だけでなく韓国・中国からの来訪者も多数あって、国際的な待ち合せのポイントとしてマークされることでしょう。時計は太陽電池で作動するECO時計です。この時計を見る人たちが、池田から未来へ、愛のある美しい夢に向かって羽ばたいて行ってほしいと願っています。
先月からこの時計台にLEDのイルミネーションが点けられて年末の風情が楽しくかもし出されています。夜は周りが暗い場所なので一層引き立っています。ぜひご鑑賞下さい。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」も最終回が終わりました。

阪本龍馬があの世から「わしは、ちっくと時計台バックにアリバイ写真を撮ってみとうなるぜよ!」とツイッター(つぶやき)しています。

カラオケ マニュアル


カラオケ マニュアル
昭和46年カラオケ機械第1号が誕生し、昭和60年にはコンテナを利用したカラオケボックスが現れた。そして今や日本のKARAOKEは世界共通語となって、カラオケ人口は5000万人とも言われる文化となった。
最近ではカラオケで余暇を楽しむ高齢者グループが盛んだが、一方若者のカラオケボックスの楽しみは多様化して来ている。
ヒトカラ⇒ 一人でたのしむ     タカラ⇒ 多人数で楽しむ
ナリカラ⇒ 衣装を着てなりきる   フリカラ⇒ 踊りながらフリを入れて唄う
DAM★とも⇒その場で録音して、携帯やパソコンで送信し、友人からコメントをもらう。

その他カラオケ機の採点で競技して楽しむこともできるが、カラオケ機の点数結果は気まぐれで選曲や発声などで意外な点数があって、必ずしも上手いのかどうか判らなくなって来る。しかし、それがまた面白い。固いことは言わず、それで下手な者も救われるのだ。
大方の素人のカラオケは自己満足で人に聞いてもらえるような唄ではない。それでも本人にとっては快感でありストレス発散の妙薬で効能は大である。その辺を良く心得て多くの客の場では唄わなければならない。一曲が余り長い歌や皆が殆ど知らない歌などは「ヒトカラ」へどうぞ!と言いたい。またその場のお客の層に合わせて、「年代」に合った選曲をする方が聞いてもらえて、唄うほうも得するのではないだろうか。歌の流れと言うのもあって、演歌や音頭からロックやエレジーなどムードが急に変わると雰囲気が付いてこない。唄う方も聞く方も楽しく過ごせるマナーとKY(空気を読む)することが大切だ。そのためにはある程度のレパートリーも必要かも知れない。私もカラオケはド素人ではあるが、経験的にカラオケを唄う「コツ」と言うものが大分解って来た。

*腹筋を使っておなかから声を出す。
*息をつくポイントを注意。特に高音は息が充分でないと出にくい。
*自分の音域を知ること。出だしが高いと高音域が出なくなってしまう。
*伴奏に負けないように声を前に出す。
*マイクの距離・方向に注意する。
*口を開けて言葉をはっきりと。
*自己満足は敵、批評を聞いて磨くこと。
*イントロ(出だし)が決まり。
*足でリズムをとって曲に乗ること。
*歌詞を覚えて、感情をいれる。3分間のドラマと言われます。
*次の歌詞を目でよんで、歌詞画面を見ずに、聞いてくれている人の方を見て唄う。
*伴奏を良く聴いて、曲に遅れないように早すぎないように合わそう。
*芸の上達はたゆまず練習を重ねるしか道はない。歌手と一緒に何度も練習しよう。


新生「池田呉服座」こけら落とし

 新生「池田呉服座」こけら落とし
旧呉服座は犬山市「博物館明治村」への移築を前に昭和44年「お名残り興行」が行われました。それから41年振りの111日に新生「池田呉服座」(いけだごふくざ)として復活しました。当日は午前10時から元呉服座「座主」(本家)中田氏ご家族をお迎えして、記念式典が開催されました。私費を投じて改修された新座主山崎照久氏。「呉服座」の名称使用許可や町並み保存整備に尽力された倉田市長。大衆演劇の一座と劇場の仲立ちをされる山根演芸社社長。栄本町町内会長岸上宏司氏を始めとして各界の来賓多数の出席のもと初演の紀伊国屋章太郎太夫元の司会で華やかにオープンしました。
まちなみ保存整備事業で電柱のないすっきりとした栄本町通りには「落語みゅーじあむ」
「ビリケン像」が出来て、国登録有形文化財「旧加島銀行」(カワムラ商店)長谷川紙商(ハセガワアート)紅屋呉服店・はむろや薬局など古い旧家が旧能勢街道(巡礼道)の面影を
感じさせてくれます。ここに加わった「池田呉服座」がさらに池田の新しい風情をつくりあげ、多くの方々が訪れて下さることを期待したいと願っています。
こけら落とし興行は「劇団紀伊国屋」が12月までの2ヶ月間毎日昼・夜2回公演されます。旅役者と呼ばれる大衆演劇の劇団一座は全国に150座程もあります。主催者は座長と呼ばれ多くが血縁者で1~3歳から舞台を踏み全国の劇場を巡業します。歌舞伎などとは違って一般大衆を観客としてわかり易く楽しい庶民の芝居です。また役者との距離が近く一体感があって追っかけファンが多いのも特色です。
初日の昼の部を観に行きました。芝居の演題は「坪井金五郎廓の立て引き」背景は絵幕で大道具なし、小道具を上手く使って狭い舞台を有効に生かして場面が展開する。役者の息使いが伝わる距離感だ。アドリブで観客を笑わせたり、台詞でしんみり泣かせたり、立ち回りの活劇もある。演技は確かなものだ。衣装はなかなか立派なもので安っぽい田舎芝居ではない。第2部は歌謡・舞踊ショー座主の澤村慎太郎の芝居から一転した女形は男とはとても思われない艶やかな舞踊に惚れ惚れとする。幕間には役者全員で前売り券を面白く売り捌くあたりは大衆演劇ならではの演出だ。狭い劇場のスペースに短い花道をつけてある。役者が良く見えるように踊り場を少し高くし花道は下降して舞台へ出る。呉服座独特の工夫がある。3時間余りの時間も忘れる興行の楽しいひと時を過ごして役者全員の見送りを受けてビリケンさんの足裏をなでて帰路についた。

3000円あれば「吾妻」でさざめうどんを食べてお芝居を観て、お茶でおしゃべりして、一日を楽しく過ごすことが出来ます。憂さを忘れて元気になること請け合いです。